本澤二郎の「日本の風景」(5613)

<戦後40年8月=日航機123便御巣鷹山墜落(12日)・中曽根靖国神社初の公式参拝(15日)の因果>

旧内務官僚の正力松太郎は、敗戦後の追放解除後に、読売新聞社長になると、宇都宮徳馬の保証人で社員になった渡辺恒雄を、児玉誉士夫と海軍主計中尉で内務官僚の後輩・中曽根康弘の面倒を指示した。正力はワシントンの謀略機関CIAの配下となって、日本を反共の砦にした負の功労者だ。吉田茂内閣が誕生させた平和憲法破壊への路線が敷かれ、戦後40年に異変が起きた。


当時、在京政治部長会のメンバーとして、中曽根は敗戦記念日に戦争神社靖国を初めて公式参拝を強行する一環として、その直前に言論界の代表を軽井沢ゴルフに誘っての「政治工作」に余念がなかった。官房長官の藤波孝生を随行させていた。

歴史の教訓を守らない改憲軍拡派の中曽根に、天は怒りだしていたのであろうか。直前に日航123便が、彼の地元御巣鷹山に激突、520人が命を落とした。


いま、なぜ中曽根は米軍横田基地に着陸させなかったのか。なぜ自衛隊戦闘機2機の実弾演習を相模湾上空でさせたのか。「後部尾翼の圧力隔壁の破損」という専門家でなくても首をひねる屁理屈で逃げ切ったのか。なぜ相模湾海底で眠る尾翼を引き上げなかったのか。すべての疑惑を墓場に持ち込んだ中曽根は、日本の民主主義を破壊した岸信介・正力に相当する日本最大の悪党と断じるべきだろう。

ロッキード事件などを共有するナベツネも、戦後日本の秘事を蓋してこの世を去った。岸のA級戦犯の潮流は、鍋がテコ入れした孫の安倍晋三を経由し、菅義偉と岸田文雄につながった。しかし、いまの石破は少し違う。「ナベツネは福田赳夫に寵愛された人物をゴミ売りの主筆にした」と最近、聞いたばかりだ。

非戦の憲法を破壊し、核兵器大国をもくろむ安倍とナベツネ残党組の石破おろしは、結局のところ成功しなかった。カルト神道を岩盤とする右翼政治は、いま真っ二つだ。大胆な政界再編の予感がしないではない。極右日本会議と石破の決戦は、今後、野党を巻き込んでいくかもしれない。


<恐ろしい歴史を忘却した無知蒙昧のナショナリストの群れ>

東京新聞によると、日本世論調査会が18歳以上の男女3000人(有効回答1888人)を対象に行った郵送調査では、62%が「参拝すべき」と回答。「参拝するべきでない」は33%にとどまりました。


現在の日本人は、歴史を知らない。学校で教えなかった、そのためである。戦後日本の指針である日本国憲法を知らない。憲法と戦後日本の針路は一体である。そこには歴史の繰り返しは存在しない。旧三木派・宏池会・旧田中派の信念でもあった。護憲リベラルが日本の針路である。寛容な自由主義は、石橋湛山や宇都宮徳馬の政治路線である。隣国との友好が人々の暮らしを安定させるが、岸の流れはワシントンの産軍体制に飛び込むことで、インド太平洋の覇権国を目指している。天皇制国家主義の復活を意味する危険で、野蛮すぎる政治路線である。

本日公表された、恐ろしい国民の統計に衝撃を受ける。排外主義の日本を裏付けている。希望のない自暴自棄の日本国民ではないか。やくざ暴力団が跋扈する日本へと移転しているのかどうか?


<軽井沢での中曽根とのゴルフ=在京政治部長会>

在京政治部長会と中曽根軽井沢ゴルフの記憶は薄れてきた。8月13日だと思う。言論界にサービス、油断させておいての戦後日本の初めての戦争神社への公式参拝目前である。8月14日は事前の準備で、大好きな座禅の日にするためだろうか。もう詳しい記憶はない。完全にナベツネ・中曽根工作に乗せられていた証拠かもしれないが、悔しいの一語である。


<岩動道行と鍵田忠三郎と台湾国民党訪問>

平和憲法を制定した吉田茂を尊敬する宏池会は、吉田側近の池田勇人が継承した。吉田を支える御三家の一人が高知県宿毛の林譲治(衆院議長)。彼の娘婿が岩動道行。池田の京都帝大の後輩。大蔵官僚から吉田秘書秘書官を経て政界入りする。

先祖は富山県らしい。同県には石動という地名が残っているという。岩手には宏池会大平派参謀の鈴木善幸もいた。のちに志賀節と小沢一郎の覇権争いのあと、小沢が制圧する。

この岩動は台湾との関係が深かったことから、中台和解工作で一肌脱いでもらった。その彼とゴルフ場で出くわした。第二次中曽根内閣で科技庁長官を歴任する。


いうところの角福40日抗争後の衆参同日選挙の渦中に倒れた大平後継で、中曽根はナベツネにもせき立てられて「俺の番だ」と決起したが、田中角栄は鈴木を指名した。このとき財界に明るい岩動に調べてもらった。「中曽根は危ない。何をするかわからん人物」と財界首脳らが判断したことが分かった。

憔悴する中曽根に「財界の支持のない政治家は使い物にならない」と彼の別荘・日の出山荘で進言した。月明りで照らされたゆずの木陰で、彼は神妙に耳を傾けた。政治は夜つくられる。当時の筆者は、まだ中曽根の暴走を信じていなかったころだ。

「他人の話に耳を傾ける」と中曽根を調教したのはナベツネに違いない。


奈良市長から政界入りした鍵田忠三郎は、右翼清和会の福田内閣を信用していなかった。幹事長の大平は、目白に蟄居する田中と、頓挫している日中平和条約の締結に知恵を巡らせていた。福田派参謀の園田直外相を仲間に入れて、福田の背後の岸を封じ込める作戦に自信を持った。

大平の密使となって北京入りする人物に選ばれたのが、奈良市長だった。彼は大平の日中国交回復の時点で、唐の都長安、現在の西安との友好都市を大平に頼み込んでいた。大平と周恩来が動いて、奈良市と西安市は中国との友好都市第一号となった。鍵田の大平密使はこうして実現した。

周恩来の対日工作の責任者・廖承志と鍵田の秘密工作は、当初は福田を信用しない中国側の壁に日本側は苦戦する。この場面で、彼は

「あんたは大平を信用できないのかッ」と叫んで、事態は動いた。霞が関の大平と目白の連絡役が、田中派の愛野興一郎外務政務次官。めでたく福田は条約実現に胸を張れたが、岸との関係は壊れていく。岸の娘婿とその息子は強く反発していた。

A級戦犯の岸を好きになれなかった福田は、娘婿の安倍晋太郎を信用しなかった。安倍家のお庭番・加藤六月の誕生だ。娘婿の加藤勝信をコロナワクチン担当の厚労相に起用したのは安倍のせがれ。いま財務相として悪戦苦闘している。


鍵田は北京の要請を筆者に期待してきた。世紀の第三次中台平和統一工作である。当時北京と台湾とのパイプはゼロ。筆者は信頼で信頼できる岩動に声をかけた。彼は説得に応じた。国民党幹事長に親書をかいてくれた。秘書の中田滋を案内役につけてくれた。国民党幹事長室での平和統一の呼びかけは、筆者がこの世で初めて。このとき妻の真知子以下家族全員で訪台した。

台北空港で目の前の日本人客が、漫画本まで取り上げる様子に驚いた。戒厳令下の中華民国だった。

「大陸と台湾」「第三次国共合作の底流」(非売品)に興味と関心のある読者は連絡してほしい。貴重な記録本である。林譲治の側近の医師・高橋正六さんが1000冊(東京タイムズ印刷局)製本してくれた。国会図書館にも贈呈しなければならない。


この平和統一の流れを、武器で阻止しようとする台湾独立派と安倍の清和会が、現在も強行している。そのための「台湾有事」の喧伝である。平和的な国民は反対しなければならない。安倍政治の負の遺産そのものである。もう日本にカルト神道極右はいらない。

以上は憲法も歴史も知らない若者たちに対する反骨ジャーナリストの遺言の一つである。

中曽根参拝問題の解決に力を発揮したのは、鍵田である。彼は事前に幹事長の金丸信を抱き込んでいた。彼は実に痛快な人物だった。

2025年8月13日記(茅野村の仙人・日本記者クラブ会員)