本澤二郎の「日本の風景」(5366)
<正力松太郎・渡辺恒雄に対抗した反核の吉岡斉>
元九大副学長の吉岡斉を御存知か。昨日、袖ヶ浦市のスーパー伊藤で買い物をした後、核汚染ごみや水銀垂れ流しの現場で知られる幽谷へと足を向けた。ここは敗戦目前の日本の戦後復興のため、東京帝大理工学部の俊英100人が命を奪う靖国・赤紙からかくまった房総半島の景勝地で知られる。その本陣となった御園豊宅で主は、見事な庭園の清掃に汗を流していた。彼は筆者を居間に招き入れると突然、吉岡斉の名前を挙げた。「未明にNHKのザ・ベストテレビを見て日本にもすごい人物がいた。その人は吉岡斉」という。
永田町の権力闘争取材に人生を賭けてきた凡人ジャーナリストは、いわば無知の代表だ。早速ネットで吉岡という人物を調べてみた。
確かに存在した。最後は九大副学長。2018年に64歳で亡くなっている。正義の士は長生きできない、彼もそんな一人だったが、彼の膨大な書き残した文献が九大に眠っている。それがようやく人々の目に触れられるようになった。NHKは「緊張と忘却」と題して彼の実績の一部を明らかにした放送を、真夜中未明に流し、その映像を御園が偶然、見たのだ。彼は感動して、それを筆者に打ち明けた。
資料には「吉岡 斉(よしおか ひとし、1953年8月13日 - 2018年1月14日)は、日本の科学史家、元九州大学副学長(教授)、東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会(政府事故調)委員」とある。
彼は学者の良心にかけて反核の正義を貫いた人物だった。そのヒントは富山県生まれ。旧内務官僚にしてA級戦犯、戦後は岸信介のA級戦犯内閣と共に、危険で高価すぎる原発推進の立役者となって、読売新聞・日本テレビを使って反核の世論を封じ込め、日本の核政策を推進した岸に並ぶ大悪党・正力松太郎と同じ出身。
ヒロシマ・ナガサキの悲劇の教訓を学ばない彼は、最悪の「天皇の官僚」でも知られる。この正力の後継者が、宇都宮徳馬が保証人となって読売に押し込んだ渡辺恒雄。宇都宮が「忘恩の徒」と断罪した人物。
311の世紀のフクシマ東電核爆発後の再稼働に突っ走る読売と経産省ら原子力マフィアに対抗した吉岡の正義は、どこから来ていたのか。彼をして学者の良心として反原発を叫ばせた原動力を、筆者は正力と同じ富山県生まれではなかったか。
商工官僚の岸、内務官僚の正力の不遜すぎる核兵器開発に向けた原発推進政策に対抗して、学者の良心・科学者の正義で立ち向かった64年の生涯には、まさしく日本国憲法の平和主義の体現者だと見て取れる。
<読売ら原子力マフィアの言い分=嘘も繰り返せば本当になる>
ヒロシマ・ナガサキの教訓とフクシマを封じ込めた原子力マフィアの強固な布陣の裏で、米国の謀略機関・CIAが存在している。正力にはコードネームもあったが、渡辺はどうか。彼の巨万の資産の行方にも関心が集まって当然だろう。貧者の資産を掠め取る日本人がいるのである。
半島出身者の田布施の人たちをまねする輩もいる。原発は利権の塊である。そこに埋没する科学者や役人に日本人の血が流れているのだろうか。
原子力マフィアの言い分は、ヒトラーに学んでいる。それは嘘も100回だ。総選挙の最中の体験だ。「やくざに一票いれるな」と木更津市の職員に声をかけると、やにわに「ハマコーがアクアラインを建設した」というとんでもない嘘がさく裂した。おわかりか?
安倍晋三の改憲論も100回NHKが率先して報道した。岩田明子批判を止めるわけにはいかない理由だ。彼女を雇っている千葉大も狂っている。しかし、戦争を肯定する日本人が多数になることはない。すべてが安倍や岸田、石破ではない。
<国民(愚民)すべて負担すれば19万円程度とうそぶく推進派>
NHK番組の中でも「嘘つきは三文の徳」という妄言や「国民一人あたりにすれば大した金額ではない」といったたぐいの暴論に、元水田三喜男秘書も耐えきれず、何度も筆者に向かって叫んだ。
目の前の核汚染ごみも「時間が解決すると市や県、やくざ暴力団業者は考えているだろうがそうはさせない」と口を尖らせた。半島出身の為政者に限らない。米国のCIA仕込みの渡辺ら元ワシントン特派員もそうであろう。
しかし日本人の全てが愚民とは限らない。賢人はいる。歴史を知る郷土愛のひとは賢人である。正力松太郎・渡辺恒雄・中曽根康弘といった天皇制国家主義者は、敗戦後の教育で少数派である。
<NHK墜落に反吐が出る=広島長崎福島の人たちは吉岡に続け>
国民が見ていない時間帯に大事な情報を流すNHKの墜落には、いつも泣けるではないか。被爆地の人々は吉岡斉の学問的成果を学んで、日本列島から核をなくそうではないか。たとえトランプの言う3000年かかっても、真実に目覚めた賢人はあきらめない!
2024年12月6日記(茅野村の仙人・日本記者クラブ会員)
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日[3])は、日本の実業家、政治家。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したために「プロ野球の父」と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したために「テレビ放送の父」と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために「原子力の父」とも呼ばれる[4]。1885年(明治18年)に富山県射水郡枇杷首村(現在の射水市)生まれ。1911年に東京帝国大学(法学部)卒業で旧内務省に入省。1923年12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は警視総監の湯浅倉平とともに引責辞職[5]。1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)[6]。A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、後に不起訴となったが公職追放処分を受けた。長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)を行っていたことが、アメリカ合衆国で保管されている公文書により判明している[7][8][9][10][11][12]。また、1960年代に衆議院議員(自民党に所属)になり自由民主党総裁の座も狙っていた。読売新聞社の部下だった渡邉恒雄を中曽根康弘(当時、自民党の衆議院議員)との連絡役にしていた[13]。CIAエージェントとしてのコードネームはPODAM。
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