本澤二郎の「日本の風景」(5359)

<房総半島の戦争(三里塚防空壕)と平和(加曾利縄文貝塚)>

地元の公民館活動で「三里塚」という懐かしい文字を見つけたものだから、多少懐かしい思いを抱いて参加した。風はあったが、バスは雲一つない快晴の房総半島を北上し、飛行機の騒音に悲鳴を上げる成田に向かった。駆け出しの社会部記者として「三里塚闘争」を少しだけかじった思い出の地だ。あの頃は大きなとがった石ころが飛び交って、県警の機動隊や取材陣を泣かせていたが、反対闘争をする農民や学生らの思いを理解する余裕などなかった。

取材する車に取り付けた「社旗」を取りはず必要があった。編集幹部は「現場に近づくな」との指示も受けていた物騒な成田・三里塚だった。「騒ぐと国から余計に金が出る」という言葉をバスの隣人から聞いて頷いてしまった。


宮内庁の御料牧場を活用した成田空港用地を決めた佐藤栄作内閣

の悪辣な強権主義など知る由もなかった。農民の怒りの声を調べ上げて報道する基本的な姿勢など、取材陣にあったのかどうか。仮にあっても編集幹部から記事を没にされただろう。異様な雰囲気だけを今も覚えている。当時の反対派関係者の苦悩の足跡を感じることが出来るのか?

三里塚記念公園記念館の説明を聞いて、即座にあきらめたが、日米戦争時にそそくさと建設された皇太子のための防空壕がどういうものか?一見するに値するとの思いは達成できた。

崩れ落ちそうな地中に穴を掘って、体を押しこめる程度の庶民の防空壕と比べるとどうか。なんと2か月で完成させたという皇太子専用の防空壕(日米開戦直前の1941年完成)は、厚さは70センチという分厚い鉄筋コンクリート造り。爆弾が投下されても爆風よけもある。庶民の形だけの防空壕とは天地の差だ。「天皇は神」の後継者として頷くことが出来た。


確か軍事オタクの異名のある石破茂は、核兵器に耐えるシェルター建設を口走っていたと記憶している。核戦争を想定した初の首相であろう。一度超党派の議員連盟の訪朝団に同行して北朝鮮の地下鉄の入り口を見学したが、その深さは核に備えたものだった。ロシアやウクライナはどうなのか。


御料牧場が出来たのは明治18年。必要なものはすべて皇室のものにするという天皇制の強権的野望がみてとれる。およそ20年かけて徳川幕府体制を破壊する年限か。日米開戦直前の天皇の後継者のための防空壕とは、戦争前から敗戦を覚悟していたものかもしれない。ヒロヒトと御前会議の無様な正体を見るようで悲しい。


多くの日本人は、三里塚の防空壕を見学すると、戦争の恐怖と人間の愚かさを学ぶことが出来る。思うに石破内閣は、補正予算に莫大な国債を発行する。そのツケを孫子に回す策略だ。生まれてくる子供たちが哀れでならない。このことに国会議員の全てが無関心を決め込んでいる。それにかみつく新聞テレビも存在しない亡国の言論といえる。


<「縄文の時代に還れ」と平和を叫ぶ加曾利貝塚>

千葉県人も浦島太郎か。三里塚から酒々井プレミアムアウトレットという、初めて知る場所で昼食をとる。休日ではないのに、巨大な駐車場に車がいっぱいだ。この会場で買い物や食事をとるという便利な場所に入り込んで、わずかな時間を利用して大盛りのピリ辛中華そばを、呑み込むように腹に押し込んだ。昨夜は夕食を止めたほどだった。食いしん坊はいくつになっても止まらない。

日本の麺は量が少なすぎる。中国はその点心配ないのに慣れ親しんだせいか。


その後にバスは教科書で名前だけ知っていた加曽利貝塚博物館着。ここで思いもよらない発見をした。これまで無関心でやり過ごしてきた縄文時代の房総人の遺跡から見えてきたのだが、人々は引き潮に小舟で都川を下って東京湾沿いで貝を採取し、満潮時に戻る。貝はスープやたんぱく源として食べた。目の前の木々の実や動物も食料である。竪穴式の住居で火をおこし、太陽と共に寝起きするという、そこでは助け合いによる争いのない平和な暮らし。現代からすると夢のような人生だった。


考古学者の推論も加わった縄文時代は、4000年5000年前とされる。死者は家の下に土葬し、その上にたくさんの貝殻を積んで、死者を祀る。貝塚は縄文時代の墓地なのだ。当時を生きた縄文人の土器も埋まっている。

足元に存在した大小の縄文土器の見事な出土遺物の数々に、古代の房総人の、ひょっとして優雅な自然と共に生きる幸せな姿を思い描くことも可能であろう。

水耕の稲作時代からの貧富の格差が、人間の精神を狂わせる。昨今の戦争時代は、人類が「進歩」と呼ぶ時代から人殺しの武器弾薬の進歩で、ついに核戦争の時代に突入している。その最初の被爆地がヒロシマとナガサキ。ついで311東電フクシマの原発による3号機の核爆発。その被害を房総半島の袖ヶ浦市民が被って、怒りの行動を始め、本ブログも3年経過した。

因果応報は天皇制化で表面化したものかもしれない。「自然に帰れ」であろう。水・土壌・大気の汚染は悪魔の所業か。


<非戦論発祥の地・房総半島は日本で一番平和で安全な地>

加曽利貝塚博物館の資料によると、貝塚は房総半島の西側、東京湾沿いにたくさん集中している。日本列島の貝塚の集中地区なのだ。ということは、日本列島で一番縄文人にとって暮らしやすい地域だったことになる。

しかも、河川の水は飲んでいない。動物の死骸や糞尿で汚染されている。人々は豊富な湧水を利用した。木更津市の「いっせんぼく」はその名残である。ただし、ここの北側に銅線を洗浄する日高金属からの水銀などが垂れ流されて3年。武田川に注がれ、その先は小櫃川に合流する。この武田川には魚がいない。鴨の姿も消えてしまった。

房総人が飲み水にしていた湧き水も汚染されてしまった。一方で、やくざ系の産廃業者がフクシマから核汚染ごみを袖ヶ浦市の水源地・陣場台に不法投棄。放射能被害も懸念されているが、千葉県も袖ヶ浦市も逃げ回って対応しない。


木更津市茅野は、旧上総の国望陀郡茅野村。この地で生まれた神童・松本英子は栃木の足尾鉱毒事件報道で大活躍した日本で最初の女性ジャーナリスト。彼女の非戦論は憲法9条が誕生する20年前にアメリカの地で叫んでいる。


凡人ジャーナリストも、帆船日本丸が安全航海の唯一の道だと訴え続けている。日本で平和軍縮論で活躍した宇都宮徳馬さんの遺志を継いだものだ。夢ではない。人間は自然に還ることでしか安全安心を手にすることは出来ない。

三里塚の防空壕と加曾利貝塚の縄文人が、すばらしい機会を作ってくれた。感謝したい。

2024年11月29日記(茅野村の仙人・日本記者クラブ会員)


司法は狂ったままだ!政権交代不可欠

「マイナ保険証」を巡る訴訟で、原告の訴えを退ける判決が言い渡された28日午後3時すぎ、東京地裁が入る建物から出てきた原告団長の須田昭夫さん(81)は「予想外の判決だ」と硬い表情で話した。背後では関係者が「不当判決」と書かれた紙を掲げた。


神戸市は袖ヶ浦市と違った!

違法な“盛り土” 再三の撤去命令に従わず…男を逮捕 台風で流される恐れ、住民に避難指示も 神戸市

違法な盛り土をやめるように神戸市に命じられたにも関わらず、従わなかったとして、「北神砕石」代表取締役、金子理彦容疑者が逮捕されました。市は、再三にわたって盛り土撤去を求めていましたが命令に従わず、土砂を撤去する行政代執行が行われていました。