本澤二郎の「日本の風景」(4945)

<鈴木宗男のロシア訪問は当たり前のこと、問われなければならないのはバイデンのポチ・岸田文雄>

自民党から、より右寄りの維新に籍を置いている鈴木宗男のロシア訪問が、物議を醸している。結論を言うと、大したことではない。政治家としての責任を行使したにすぎない。問われるべきは、米国大統領・バイデンの忠犬になって軍事同盟NATOの手足となって動き回り、それが正義だと吹聴している反憲法内閣の岸田文雄の方であろう。

ウクライナ戦争の片棒を担いで、事実上のロシアとの戦争にのめりこんでいたバイデンの、ウクライナ支援予算が米議会の抵抗に遭ってとん挫、挙句の果てに下院の共和党・マッカーシー議長が解任されてしまった。米国議会のほうがまともである。


<憲法は国際協調主義=戦争は双方とも50歩100歩>

日本国憲法は侵略戦争の教訓から、国際協調主義を外交政策の基本原則にしている。これは誰が考えても正しい。戦争抑止の外交である。

戦争での暴利で暗躍する財閥などの「死の商人」はいざしらず、平和を欲する市民の価値判断でもある。

そもそも戦争にいい戦争はない。すべて悪い戦争である。双方に理由があるが、50歩100歩でしかない。「戦争はすべて自衛のための戦争」と吹聴して始まるが、自衛のための戦争などありえない。これは敗戦後の憲法議会での吉田茂首相の議会答弁である。

吉田は悪党のような麻生太郎の祖父である。吉田の遺伝子はゼロ、父親の炭鉱財閥の遺伝子100%ゆえに、極右の安倍晋三と肩を寄せ合う仲となった。


<日本外交は均衡重視、一方に偏せずが大原則>

日本丸は二度と戦争を起こさない、起こしてはならない憲法を保持している。安倍がいくらもがいても非戦の憲法は、しっかりと生きている。日本国民が被害妄想や偏狭なナショナリズムに迎合しない限り、日本会議・神道「神の国」が公明・維新・連合の国民民主を囲い込んで、緊急事態条項を挿入しようと図っても、そんな策略でツネの狙う改憲軍拡の野望を、平和ばねがはじいて許さない。宇都宮徳馬の「日本人の平和主義はいい加減なものではない」。

A級戦犯の昭和の妖怪・岸信介や青年将校上がりの平成の妖怪・中曽根康弘などの天皇制国家主義者や、天下の政界フィクサーの渡辺恒雄言論が世論操作をして強行しようとしても、日本国民は二度と戦争を選択しない。当たり前であろう。死の商人はあきらめたほうがいい。


話を戻すと、鈴木のロシア訪問はなんら問題にならない。問題は右翼メディアに翻弄される政治屋にもある。


<中川一郎と野心家秘書の攻防>

生き馬の目を抜く政界と財界。そこは生死をかける男たちの修羅場といっていいだろう。カネと権力の悪党どもの争奪戦とみれば、そこには民意は反映されない非情な闇の世界。殺し殺される世界でもあろう。

まともな男や善良な女たちが首を突っ込む世界ではない。そこにうごめく男女は、法治の概念さえも吹っ飛ばす。


再選必至の鈴木善幸首相は突然降りた。善幸とは政治部に所属して初めて出会った政治家。日米軍事同盟に抵抗した善幸を、岸らの激しい日米CIA工作に嫌気をさしたものと理解できる。岸の動向を、当時、元二等兵の福家俊一から聞いていた。福家は岸の忠犬ハチ公だった。

鈴木辞任に一番驚いたのが、田中角栄だった。即座に田中派と鈴木派で後継者を中曽根に絞った。1982年11月24日の自民党総裁予備選を制したのは、むろん中曽根だった。河本敏夫・安倍晋太郎・中川一郎は敗れた。

反田中派の福田赳夫の作戦もおかしい。後継者のはずの安倍のほか、中川にも塩を送った。ここにこそ福田と安倍の義父・岸の確執が見て取れるだろう。福田派を二つに分けて候補者を二人立てた。ということは、岸と福田の知られざる確執と結果的に中曽根に貸しを作った?ことにもなるのだが。


敗れるべくして敗れた中川の事務所(十全ビル)を覗くと、ひとり中川がぽつんと応接間の椅子に座っていた。宗男も女性事務員の姿も見えない。敗軍の将は兵を語らず、というが嘘である。石原慎太郎や森喜朗ら側近に裏切られて主の衝撃は収まらない様子で、取材を忘れて中川を慰めるほかなかった。

その時の彼の一言を今も覚えている。「政界には心友はいない。政友ばかりだ」。

宗男の証言によると、中川は福田邸に乗り込んで「俺をさんざん利用しやが総裁て」と泥酔にまかせて本音をぶちまけたという。事実に相違ない。


安倍晋三も第二次内閣を発足させるとき同じ手を使っている。彼は清和会の候補者・町村金吾の倅信孝に対抗して出馬、石破茂・石原伸晃・林芳正を破って勝っている。下剋上が清和会の伝統である。


鈴木宗男の秘書時代を知っている。中川と一体になることで、事務所の管理から陳情一切を切り盛りしていた。部屋をのぞくと北海道美人秘書がすかさず北海道産の牛乳を、コーヒーや日本茶の代わりに出してきた。冷蔵庫は牛乳で膨らんでいたのであろう。

中川の行くところ、どこにでもついて用件が終わるまで廊下でかしこまって待っていた宗男作戦は驚く。木下藤吉郎のぞうりとりだ。若いころ、苦労して親分の信頼を独り占めして、ついにはカネも手にして政界に飛び出し、叩かれてもめげずに跳ね上がってくる珍しい男である。


中川は大野伴睦の秘書から政界へ。この大野の信頼を手にしたのが、政界のフィクサーで今は大金持ちのツネだ。「番記者時代に伴睦の財布に手を突っ込んだワタツネ」との評価もある。学生時代の左翼活動家が、右翼に転向して言論界を背景に政界に首を突っ込んだツネに宇都宮徳馬も翻弄されてしまった。中曽根を首相にすると、森喜朗を手始めに政界のフィクサーとして暴れまくってきたが、しかし年齢には勝てない。

要するにツネは中川はいうまでもなく、鈴木宗男も自在に操れるだろうし、宗男の止まり木でもあろう。

宗男の破天荒な人生経験がロシア訪問を可能にしたものであろうが、それ自体は政治家なら当たり前の行為で非難に値しない。いまの外務省は狂っている。岸田内閣も、である。

日本外交の核心は、ワシントンやNATO、モスクワに戦争をやめさせることであって、ウクライナ支援に肩入れすることではない。憲法もそうだし、戦争禁止が人類の悲願だ。死の商人のための戦争にいいことは何もない。

2023年10月5日記(反骨ジャーナリスト・政治評論家)


報道によれば「宗男氏は10月1日に日本をたち、モスクワ入り。2日にルデンコ外務次官、前駐日大使のガルージン外務次官と会談した。ウクライナ侵攻の正当性を主張するロシア側に対し停戦を呼び掛けたほか、北方領土の墓参や漁業の安全操業を働きかけたという。滞在中、複数の高官と会談し、5日に帰国する予定だ」。


(資料)自殺の原因は何なのか。鈴木氏の手記によれば、中川氏が極度の鬱状態に陥ったのは自殺の前年の1982年11月27日。中川氏は24日の総裁選に出馬し敗れている。27日は福田赳夫元首相宅に総選挙後の挨拶に行き泥酔。福田氏に対し「散々俺を利用しやがって」などと思いの丈をぶちまけたという。そして「俺はやられる」といった被害妄想に襲われるようになった。