訪中40年ODA40年<本澤二郎の「日本の風景」(3511)
<1979年12月大平正芳首相訪中ODA始動>
大平首相の中国訪問に際してのODA支援約束は、現代の中国史に劇的な変貌を与えたことが、ここ大中国の首都に二本足で立つと、よく見えてくる。それは、中国・東洋思想の原点ともいえる「報恩の徒」としての信念を貫いたものの、半年後の政局の苦闘の末、桜花のように散った見事な成果である。そんなおとうちゃん(大平ニックネーム)に対して、現場に立ち会った日本人ジャーナリストとして、深甚より敬意を表したい。現在の日本政府が、極右に乗っ取られて久しいことから、余計に感慨深い。(一部敬称略)
人口14億人の巨龍は、今日では製造業世界一から、世界一の巨大消費市場へと飛龍、世界第二位の経済大国としての地位を不動のものとした。官僚大腐敗と超格差問題に勝利すれば、もはや誰人も、この国にブレーキをかけることなど出来ないだろう。むろん、この課題の壁は厚い。日本の政府開発援助資金(ODA)40年の来年からが、真の正念場といえるかもしれない。
思うに、大平訪中のODA公約の1979年12月から、中国の大地を両足で固く踏んで以来、今回で111回の中国訪問を数えた。幸運なジャーナリストには、恩師・宇都宮徳馬さんや人権派弁護士・遠藤順子女史らにお尻を叩かれての記録である。支援を惜しまなかった妻の眞知子は、無念にも、次男正文の医療事故死(東芝病院)のあと、心労による病魔に疲れ果て、我が訪中100回目前に旅立ってしまった。
大平・田中角栄両者とも波乱万丈の人生を送ったが、我が小さな人生もやや似ている。奇しくも角栄・徳馬さんも、我も共に疾駆するうま年である。
<侵略戦争賠償放棄へのささやかな報恩>
おそらくは、現在の中国人は日本のODAについて知らない。日本からリベラルな政府・政権が姿を消したせいでもある。一人河野洋平さんくらいか。新人期待の星は、徳馬さんの孫の徳一郎君(日中友好協会副会長)。彼の大成を願わずにはいられない。
現在の日本会議政権は、数年前まで中国封じ込めを悲願として、実に60兆円の血税を投入した。親中派だった公明党創価学会もこれに反対しなかった。宗教政党の忘恩・無節操な政権欲に失望、以来、警鐘を鳴らし続けてきている。
大平ODAが中国経済の急成長の起爆剤となったことは、その政策判断が正しかった証明である。大平・鄧小平の狙い通りとなったのだが、日本側としては、中国の毛沢東・周恩来の日本侵略戦争賠償放棄に対する、ささやかな報恩であろう。
仮に戦争賠償を要求されると、日本の経済成長も止まり、沈没することが必至だった。宇都宮さんは、賠償放棄を知って、日中国交正常化は実現できると確信した。何度も語ってくれたものだ。日本人の多くが知らない史実でもある。
<鄧小平の改革開放の起爆剤>
1979年の北京は、悲惨すぎる文化大革命の首謀者である4人組を退治した華国鋒主席が、中国共産党のトップとなっていたが、行政の中心は副首相として復帰していた鄧小平だった。現に、北京での日本国首相は、人民大会堂での鄧小平会談に臨み、そこでODAの概要を説明している。
このことをつぶさに見聞していた日本政府関係者は、官房副長官の加藤紘一と首相秘書官の森田一。無念にも大平後継者の加藤は清和会によって、事実上、永田町から追放されて、不運の生涯を終えた。彼こそが「神の国」を旗印に掲げた森成敗に突進したのだが、中曽根康弘や野中広務らに抑え込まれてしまった。
大平さんの娘婿の森田が元気であれば、40年前の生き証人である。外務省のOBに証言者がいるのかどうか。
鄧小平の改革開放政策は、日本の血税であるODAと結びついて、爆発的に高度の経済発展を遂げた。これを中国の人民は知らない。悲しい現実は、日本の反中国政権である清和会政治と深く関係している。
<横やり入れた清和会の森・小泉・安倍の「神の国」政権>
清和会には、反共主義の台湾派が占拠していた。森や石原慎太郎らは「青嵐会」という血盟の組織を結成して、田中・大平連合にかみついて離さなかった。背後に岸と蒋介石が控えていた。
しかし、福田赳夫内閣の場面で、幹事長の大平と目白の田中が福田を説得、岸信介の金縛りを解いた。めでたく平和条約締結にこぎつけた。喜んだ鄧小平は、訪日するや田中邸を訪問している。
しかし、日本政治の主流は、台湾派の牙城へと変わった。小泉純一郎・安倍晋三が頂点に立つと、大平ODAにかみついてきた。
同時並行して、戦争神社で知られる靖国神社への参拝を強行した。安倍も第二次内閣下靖国参拝を強行、国粋主義者の本領を暴露した。そうしてODAの終焉を約束したのだが、幸いにも目的はほぼ完遂していた。
<深い傷跡に塩をすりこんだ極右・日本会議政権>
日本会議主導の最近までの天皇交代劇は、166億円をかけた原始宗教の秘儀を体現したもので、新聞テレビは宣伝に躍起となったものの、多くの国民は冷ややかに眺めていた。一人安倍が「我が意を得たり」と有頂天になっていたが、筆者の友人である清和会OBは、この時点で天皇廃止論を公然と口にするようになった。ひどすぎた不幸な歴史に、現人神として侵略戦争に関与した昭和天皇に、腹の底からいら立ちを覚えたせいでもある。
確かに、新天皇による靖国への参拝はなかったものの、靖国と連携する伊勢神宮を、秘儀の中心舞台とした。歴史を知る国民に違和感を与えていた。
「日本は天皇を中心とする神の国」と戦前の天皇絶対制を鼓舞する安倍、それ以前の小泉の靖国参拝は、侵略戦争の被害国民にとって、五体に深く傷ついていた傷跡に、塩を思う存分押し付けるに等しかった。
14億人の人民、ついで半島の南北朝鮮人民も、日本不信を決定的にしてしまった。これの負債は、回復不能のレベルに落ち込んでしまった。人民から、ODAに対する日本国民への感謝の念は消えてしまった。清和会政治の罪は万死に値する。
国民も、日本会議なる不気味な宗教カルトに辟易するばかりである。
<中国史から消えた?日本の政府開発援助>
かくして小泉・安倍内閣の下で、中国人民の頭脳から、日本国民が支払った政府開発援助の見事な実績と評価は忘れ去られてしまった。
結果、1972年からの両国人民の心の交流は消えてしまった。大平や角栄の命がけの苦闘の成果も、消し飛んでしまった。誰か大平ODAを吹聴する中国人がいるだろうか?おそらくはいないだろう。
正しくは一人いた。もう5,6年前だろうか。
周恩来の指示で創立された、外交官養成大学の外交学院の卒業生の陳暁傑君は、西安の出身である。「なぜ日本語を勉強したのか」という問いの回答は「西安には日本のODAで誕生した施設が沢山あります。それを知って日本語を始めました」であった。
これは嬉しい悲鳴となった。また、確か北京外語大学に大平教室がある。大平の著書や記念品も展示してある。一度、ここで講演会を開いたことがある。
<おとうちゃんの西安の旅>
そこで思い出した。大平の訪問の途次、一行は北京から西安に飛んだ。西安空港で、横を歩いていたお父ちゃんに声をかけた。「今回の訪問はいかがですか」「ごく自然に歓迎してくれているのがうれしいよ」ー。
半年後に永遠に分かれる首相のうれしそうな表情は、40年後のいまも脳裏に焼き付いているから不思議である。
日中国交回復のため、大平は、まずは先輩の池田勇人内閣を発足させるのに必死になった。女房役の官房長官を経て外務大臣に就任して、日中友好の路線を確かなものにした。
岸信介が台湾にカーブを切った航路を、北京へと切り返したのだ。岸の実弟・佐藤栄作内閣の下で、再び怪しくなる政治環境に対して、佐藤派の田中角栄と提携して田中内閣を発足させた。自ら外務大臣に就任、一瀉千里で正常化交渉に突っ走った。
政権発足が1972年7月7日。3か月後に、長かった目標を手にした。このような信念の政治家が存在したことに圧倒される。このくだりは、中国外交部OBの肖向前が繰り返し教えてくれた。彼は古井喜美から聞かされていた。誰も知らない事実である。
大平番記者もしらない。大平という政治家は、決して自慢話をする人でなかったためである。この一点だけから見ても、彼が戦前戦後の日本為政者の中で、偉大な人物であるかがわかろうというものだ。
<感動で涙が出た兵馬俑への市民の大歓迎>
お土産は、しかし、中国政府が用意してくれていた。
西安空港から発見されて間もなかった、秦の始皇帝陵で知られる兵馬俑への約50キロの沿道に、日の丸の小旗を振る無数の人民の大歓迎の姿だった。
体験者以外、誰もこの場面を想像できないだろう。50キロの沿道に途切れることなく、龍のような人民の歓迎である。華国鋒の指示か鄧小平か?これに圧倒された日本人ジャーナリストの目から、うれし涙がぼたぼたと流れた。
日本のODAで開花した中国経済である。中国訪問111回目のジャーナリストは、大平さんに代わって胸を張ることができる。肖向前さんが生きていたら、一緒に喜び合えたろう。
肖さんのいう「日本を代表する国際政治家・大平正芳」に感謝、感謝である。日本にも世界に誇れる政治家がいたことに、日本国民は誇らしげに胸を張ることができるだろう。
2019年12月2日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)
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