松本英子の生涯(上)<本澤二郎の「日本の風景」(4692)

<偉大な人物ほど多くの人・社会に知られずに生涯を終えていく運命か>

 旧暦大寒の季節だ。アジアの人びとは、今も旧暦に従って行動している。東洋の天文学者は誰だったのか?数千、数万年以上かけた実証的データの集大成に違いない。いま東南アジアから大陸・半島の人びとは、春節を祝って巨大な人間の束となって、コロナ禍をものともせずに大移動している。房総半島の中心のわが木更津市は、大寒・春節に梅の蕾が赤みを帯びてきている。蠟梅は一足先に黄色い花を咲かせている。春節とは、人々を本当の正月の気分にさせてくれる。

 だが、筆者の心は重く暗い。気分が晴れない。原因は我が郷土・茅野から生まれ育った「松本英子の生涯」を読み終えて、改めて世の中はいい人間ほど社会が認めようとしなかった事実と、偉大すぎる英子を4,5歳で四書五経、大学という中国の古典を学ばせ、幼くして書家として歌人として、さらには今の「津田塾大学」を創立した津田梅子以上の実力を備えさせたにもかかわらず、62歳の若さで米サンフランシスコで才能を発揮することなく人生を終えねばならなかった悲運に圧っしられたせいだ。


 昨日、寒風の中、英子の父親・松本貞樹の墓石の前に立った。身内の人が、「松本英子の生涯」(昭和図書出版)を世に送り出した府馬清(本名・松本英一)の墓石も教えてくれた。江戸末期から明治を生きた開明的漢学者の貞樹は、自宅のそばに寺子屋を開き、近隣の子弟を教える傍ら、そこで幼少の娘を男並みに英才教育を施し、幼くして書家・歌人の才覚を開花させた。彼はさらに、上京して娘を津田仙のもとへ預けた。そこで英子は英語とキリスト教と出会うことにもなるのだが。


<「松本英子の生涯」(府馬清著)を読み心暗く歯ぎしりするばかり>

 中国の古典をそらんじた英子は、一つ年上の津田梅子と出会う。彼女は文明開化の東京でいち早く注目を集めていた。彼女は機会あるごとにアメリカに旅立ち、多くを学んでいた。傍らでそんな梅子を眺める英子は、いつか自分もアメリカに行ってみたい、と希望を膨らましていく。

 著者の府馬は、英子と直接対面する機会はなかった。英子の父・貞樹は1820年生まれ、英子は1866年生まれ、府馬(本名・英一)は1922年生まれだ。しかし、晩年の英子は日記を書いた。病にもめげずに書き続けていた。

 ずば抜けた俊英の上に衰えることのない向学心は、亡くなるまで続いた。生涯勉強の人だった。才能と向学心の英子の精神は、平和を愛する人間性の塊だった。貧者の救済活動は、人の務めと思い、それを信じ込んでいた。これには彼女がメソジスト教会と関係を持ったこととも関係があるかもしれないが、それ以前の中国古典の最高峰である四書五経の教えとも合致していた。

 今日の日本人の多くは、為政者を含めて事業者・労働者・年金生活者ともども、誰が喝破したものか、今だけ、自分だけ、カネだけの腐敗の渦に巻き込まれて久しい。もっとも優雅な財閥は、依然として強欲な存在として、その恥ずべき代表者として政治を操っている。

 戦争を禁じた日本国憲法さえもないがしろにする政府自民党と、それに連なる野党が、世界一の報酬を懐に入れて、ゆでガエル人生に甘んじて覚醒することがない。敗戦から立ち上がり、独立国になったはずだが、実際は戦勝国アメリカの属国に甘んじ、これを当たり前にしている日本人である。


 英子が今の日本とアメリカの事情を知ったら、おそらく発狂するに違いない。 


<62歳の若さで亡くなる寸前までフランス語とスペイン語を勉強>

 70年代の日本の永田町では、英語使いの宮澤喜一の評判が悪かった。東大の先輩は、後輩に英語を使うなと指導していた。宮澤英語は、父親が国会議員として海外の国際会議に参加した時、英語が分からなくて悔し涙を流した。帰国して「息子たちに英語を勉強させなさい」と妻に指示した。

 宮澤は米国人の家庭教師から、生きた英語を取得した。彼の英語での電話のやり取りを、宮澤事務所の目撃した筆者はひどく驚いたものだ。彼はフランス人からもフランス語を学んでいた。これまたびっくりだが、英子もまた東京で生の英語をマスターして、40代で訪米して夢をかなえたが、それでも米国の大学を卒業し、それで満足せずにフランス語とスペイン語をマスターしようとしていたというから、すごいの一語に尽きる。


 筆者は同窓の知り合いが、大学3年もしくは大学4年の時に司法試験に合格したことに驚いた。最近も在学中に合格した知り合いに、どのような勉強をしたのかと聞いてみると、やはりあっけにさせられた。「2年生になって研究室に入ると、そこで法律書と共に毎日毎日食事以外は、そこで本を読んだ。学校の授業に出ることはなかった」といった。

 仰天するような勉強ぶりに目を向けられなかった自分を誉めるしかなかった。このようにして判事、検事、弁護士になった人間が、果たして世の中の事件や人々の争いを公正に解決できるわけがない。ヒラメ判決・ヒラメ検事と金儲けの弁護士ばかりの司法で、人びとは泣かされることになる。英子は違った。 


<数え切れないほど詩歌を詠む抜群の才能に脱帽>

 英子は日記をつけたし、日系新聞によく原稿を書いた。最後の記事は、亡くなる寸前に記事を書き終えて、新聞社に郵送、それが遺稿となった。語学力と作文力と数えきれない詩歌を各国語で書いていた。

 夫が英子の死後、それを日本語関係をまとめて出版した。府馬の本は、ここから原稿を書いたものである。彼女の無数の記事や様々な文章・歌は、いまも眠っている。明治から大正、昭和初期を生きた松本英子の本格的な研究が待たれるところである。

 郷土の大先輩の隠れた偉業に対して、深く敬意を表したい。彼女の父母の墓地は、我が家から歩いて10分。苔むした貞樹の墓石は高さ2メートルほどある。「女子に学問は不要」の時代に娘の才能を見つけた夫妻も立派だった。芽を出すこともなく、しかし本物の偉大な人物が生まれていたこと、その人を見いだせなかった日本に哀れさを感ぜずにはいられない。

2023年1月22日記(政治評論家・日本記者クラブ会員)