海部俊樹元首相逝く<本澤二郎の「日本の風景」(4325)

<キングメーカー竹下登の一言「彼は中央の辞達学会だからなあ」>

 政治家に必要な要素は、聴衆を唸らせる弁論である。その弁論で勇名をはせた人物というと、永井柳太郎といといわれたものだ。もう彼の声を聴いた日本人はいないだろうが、彼は首相の座に昇りつめることは出来なかった。戦前戦後ただ一人雄弁家・海部俊樹である。

 昨日91歳で亡くなったという報道が出た。新聞などでは「早稲田の雄弁会」と報じたが、半分は嘘である。彼は中央大学と早稲田大学の夜間部を出ている。後者で政治狂が集まる雄弁会にも所属したが、前者では大学弁論部の雄で知られた「辞達学会」でその技を体得した。今も残っているのかどうか。


 海部を首相に押し上げたキングメーカー・竹下登元首相から、筆者は直接聞いている。彼はリクルート事件で退陣すると、背後の中曽根康弘の意向を受けて後継者は宇野宗助。これに反発した同じ中曽根派の渡辺美智雄が宇野の女性問題をリーク、宇野は選挙で敗れて退陣、代わって竹下が担いだのが、三木武夫の秘蔵っ子の海部だった。


 旧赤坂プリンスホテルというと、福田派清和会の牙城で知られたが、その近くの南西方向に高級料亭があった。そこでの在京政治部長会と竹下との懇談会の席で、偶然竹下と隣り合わせた。「海部起用は彼の雄弁ですか」と確認してみた。「それは(早稲田の雄弁会ではない)中央大学の辞達学会だからなあ」

と応じた。


 世論の支持を喪失した自民党の再生をかけ、自民党きっての弁論の達人で、清潔な三木派の海部に期待したのである。


 どういうわけか竹下は、筆者に対してよく気を回してくれていた。首相時代の官邸での政治部長会との懇談でも、隣り合わせた。傍らで、彼の手の内側が赤くなっているのが気になった。酒造家だから酒好きだった。政治部長会とのゴルフコンペでは、わざわざ同じ組に入れて、猛打賞狙いの点数まで数えてくれた。それでも生涯、一度だけゴルフ嫌いが優勝した。竹下杯の政治部長会ゴルフコンペで。原因は台風のお陰だった。その時の幹事社が、読売の中大・本田先輩だった。彼はまじめ人間だったから、ナベツネのお眼鏡にかなわなかったらしい。


 大学弁論部の雄・中央の辞達学会で磨いた海部弁論が、宇野後継に王手をかけたことは、戦前戦後初めてのケースとなった。



<「早稲田・雄弁会では首相になれなかった」と雄弁会OBが断言>

 仮定の話をしても仕方ないが、海部が早稲田の雄弁会のみであったら、彼のさわやかな弁舌は誕生しなかったろう。いずれにしろ、ある程度の弁論術が政治家には必要である。聴衆を説得させる話術は大事な要素なのだ。


 余談だが、安倍の実父・晋太郎は「無試験で東大入学」した人物で知られる。「早稲田の運動部の裏口は商学部」といずれも竹下証言である。


 ちなみに静岡県から代議士になって、建設大臣を歴任した斎藤滋与史は、早稲田の商学部出身、彼の第一秘書が辞達学会OBで、確かに演説は上手だった。海部を男にしたのは、雄弁会ではなかった。ここは訂正させておきたい。


<政治部長退任あいさつで首相執務室へ「なぜ辞める」と驚く>

 海部さんを驚かせたことがある。  

 政治部長退任のあいさつのため、初めて首相執務室に飛び込んだ。安倍時代以前では、新聞記者などが執務室に入ることはない。まさに秘密の部屋である。そこでのやり取りは門外秘だ。したがって都合の良い情報だけが、新聞テレビを賑わせることになる。


 首相首席秘書官に情報を提供に、反対に執務室内部の情報をもらうという関係にある。その執務室において、海部に東京タイムズ政治部長を辞めることになった、との報告はいうところの仁義である。


 むろん、彼は大いに驚いた。そのさい、彼に何を話したのか、今では記憶にない。


<海部後継で社長と政治部長が激突・政治評論家の道へ>

 当時の東京タイムズは、徳間書店の徳間康快が社長だった。読売新聞を飛び出して週刊誌「アサヒ芸能」から、固い本まで出版して、成功をおさめての東タイ買収だった。

 徳間の取引銀行は、関西の住友に呑み込まれる首都圏銀行の平和相互だった。ナベツネとの連携や、あれこれ怪しげな活動も見られた徳間だった。平相は福田派清和会との関係が深く、徳間は海部後継に安倍晋太郎を擁立していた。


 安倍の古巣の毎日新聞からは、大森実の配下を、東京タイムズに送り込んできていた。岸の娘婿に対して、護憲リベラルの政治部長は、断じて屈することが出来なかった。人事権は社長にある。辞めるしかなかった。


<卒論が「自民党派閥」、米大使館政治部から声=米1か月取材>

 直ちに「自民党派閥」(ぴいぷる社)を出版して、数百万円の退職金を埋め合わせるため、生涯一度の出版会を開催した。在京政治部長会の全員が発起人になってくれた。これは前代未聞のことだった。


 背後で、心酔する平和軍縮派の宇都宮徳馬さんが支えてくれた。この本に興味を見せてくれた人が現れた。米国大使館の政治部主任担当者だった。彼のお陰で、大使館の食堂でコーヒーを飲みながら、全くの無報酬で永田町の表と裏をレクチャーしてあげた。


 その見返りが、米国務省招待の1か月全米取材旅行だった。喜んで飛びついた。「読売の改憲論の背後にワシントンが」という疑念を暴くためだった。間違っていた。改憲軍拡の震源地は日本にあった。偏狭なナショナリズムの震源地は、日本である。「アメリカの大警告」(データハウス)を書くことが出来た。護憲リベラルの宮澤喜一が、この本に感動する手紙をくれた。宮澤こそが戦後の日米関係の真髄を知る政治家だったのだから、これは大成功だった。


 正力松太郎・ナベツネの流れは、今日の安倍・日本会議として浮上、目下のところ、自公の加えて維新と国民民主党を束ね、台湾有事をわめきながら改憲に王手をかけようとしている。


 コロナ禍の水面下で、本当の日本危機が迫ってきている。日本の言論人と議会人の本領が問われている。海部の三木イズム、宇都宮の平和軍縮も、であろう。2022年は本当の正念場なのだ。

2022年1月15日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)


追記 勇敢なM管理組合改革派・赤木八郎社長も逝く!

<小作元信M大井町管理組合理事長からの訃報に茫然自失>

 昨夕お世話になった東京・品川区の住人の小作元信さんが悲しい知らせを届けてきた。「先ほど赤木社長が亡くなったと夫人から連絡が入った」というのである。海部さんは91歳、仕事の関係だったが、赤木さんは80歳、もっと身近な存在だった。

 「和歌山の赤木別荘で、日がな一日釣り糸を垂れて休養したい。3人そろって」が近未来の我が夢だった。生物兵器のコロナは、そのうちに収まるはずだ。オミクロンは感染力は強いが、まず死ぬことはない。免疫力の低下に注意すれば乗り切れる、そしてコロナはインフルエンザ並みに、と想定できる。ワクチン業者をぼろ儲けさせるだけの、政府・厚労省には嫌気がさす。

 赤木年賀状では「もう80歳、いま自宅療養している」と書いてきたことに安堵していた。大変な事態であれば、入院するだろう。近くの旧東芝病院は嫌だろうが、119番通報でどこにでも入院可能と判断できたのだから。

 赤木さんには、元気な夫人とM階下には美人の娘さん夫妻がいる。病院に行くとろくなことがない。自宅療養が最善である。「さすが赤木さんだ」と思い込んでいたが、病には勝てなかったのか。あと20年は無理でも、海部さんのように90歳くらいまで生きてくれれば、間違いなく別荘で楽しい釣りもできた。無念の極みである。

 大井町駅近くの中国人経営の居酒屋では、小作さんともどもおしゃべりに花を咲かせたものだ。都落ちした筆者のblogも読んでくれていた。コロナビジネスで、人知れず苦労していたのかも。「病は気から」である。

 上京のおり、小作邸に二度か三度、赤木邸にも泊めてもらった。二人とも問題の多いマンション管理組合の問題を処理するために奔走してきた勇気ある正義派マンション住人だった。いい人を早く奪う社会に屈してなるものか。遺族の奮闘と友人仲間の長生きが、故人への感謝であろう。遺族には「負けるな一茶ここにあり」か。合掌!



(時事)海部俊樹(かいふ・としき)元首相が9日午前4時、東京都内の病院で老衰のため死去した。91歳だった。昭和生まれ初の首相で、リクルート事件で高まった政治不信を払拭(ふっしょく)するため、政治改革に内閣の最重要課題として取り組んだ。名古屋市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男正樹(まさき)氏


水玉模様のネクタイがトレードマーク。早大在学中は雄弁会に所属。巧みな弁舌で「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」と評された。