中国40年の夢(1)<本澤二郎の「日本の風景」(3542)

<日本の第一級の国際政治家・大平正芳逝って40年>

 10年ひと昔という。もう40年もたった。197912月の大平正芳首相の中国訪問から満40年である。特派員として同行して、運命のような40年を経過した。その足跡を北京で確かめている。おいおい、そのことを「中国40年の夢」と題して、記憶の範囲内で書き記すことにしようか。


 その主役の大平さんは、半年後に台湾派の大攻勢で倒れた。盟友の田中角栄元首相は、田中後継の三木武夫内閣の下で、ロッキード事件で潰された。日中友好派と台湾派の攻防が、日本の政局を左右した。


 大局的に見ると、中国外交部OBの肖向前さんが筆者に繰り返し遺言のように語って聞かせた大平正芳という政治家は、日本を代表する第一級の大政治家であった。大平を支援した田中角栄も、時代の潮流に棹差した大政治家だったといえる。


<決死の宇都宮徳馬の中国訪問>

 日中国交正常化をいち早く主張し、行動した平和軍縮派の宇都宮徳馬も、すごい政治家だった。彼のことは河野洋平も知っている。


 鳩山一郎内閣がソ連との国交を回復したことに対して、石橋湛山内閣は日中国交回復を公約にして、政権を担当した。無念にも体調を崩して政権を投げ出したのだが、健康を回復すると、側近の宇都宮が石橋のお尻を叩いて、北京入りして日本の意向を伝えている。


 他方、台湾派の大将がA級戦犯の岸信介。いま岸の孫が政権を担当して8年目に入ったという、不可解な日本政治である。三国志演義の「呉越同舟」を印象付けている。

 安倍の目論見は、祖父の遺言である平和憲法の解体にある。戦前の国家主義への回帰であるが、それゆえの2019年危機だったのだが、日本国民とアジア諸国民の護憲平和の思いが、危機を乗り切った。


 ある程度のカギを握っているのが、裏切り専門のような宗教政党の公明党創価学会の動向である。1972年に活躍した池田大作が創立した公明党立党の原点に立ち戻ることができるのかどうか。世上「安倍の毒饅頭で肥え太った公明党の覚醒は困難」と言われているが、内部では池田親衛隊の巻き返しも強まってきている。


<報恩は人の道>

 それはそれとして、今日の大中国の、目を見張るような容姿を見聞すると、大平政治がまともだったことを裏付けている。鄧小平の改革開放政策にうまく棹差した大平の日本のODA(政府開発援助)が、中国経済の起爆剤となって、大陸全土で開花した。


 これは日本と日本人の唯一の誇りである。


 むろん、これには戦前の空前絶後ともいえる日本政府の中国侵略と植民地支配による戦争賠償を放棄してくれた、当時の毛沢東ー周恩来の英断に対する日本の報恩の誠を捧げるものだった。

 宇都宮は「中国は戦争賠償を放棄するという。これで国交正常化はできる」と筆者に語っていた。1972年のポスト佐藤の後継争いの焦点ともなった。田中ー大平連合に三木派と中曽根派が支持して、台湾派の岸信介と佐藤栄作が支援した福田派に勝利した。当時の財界・新聞テレビも日中友好に貢献したものだ。


 いま新聞テレビも、安倍のナショナリズムに傾倒して、複雑化している。台湾派の抵抗は、香港問題や台湾総統選挙で見て取れる。


 戦後の日本政治を翻弄してきた中国問題の大勢は、友好派が制圧したかに見える。報恩は人の道で、時代の変化と無縁である。忘恩は人と世の中を狂わせる元凶であろう。筆者のペンは、宇都宮への当たり前の報恩でもある。


<宿舎の民族飯店でトラクターのエンジン音で目を覚ます>

 中国の大地を踏んだ翌日未明から、記者の目と耳が、宮澤喜一流に表現すると、中原の鹿を追いかける犬のように働きだした。


 1日目の宿は、北京の目抜き通りに、東西に走る長安街の西に建つ民族飯店だ。いまでは改造されても、周囲が巨大な建造物ばかりなので目立たないが、当時としては、中心部の北京飯店に劣るとはいえ、堂々たるホテルだった。

 名前からして、中国が少数民族の国であることを教えている。それぞれの民族は、歴史・伝統・文化を大事にして暮らしてきた。一歩間違えると、軋轢・混乱が起きてしまう。

 そこを仲良く和合させていくかじ取りが、中国政治の大事なポイントである。民族飯店は、そのことを印象付ける名称だった。


 まだ真夜中である。北京の冬の朝は遅い。朝の7時でも薄暗い。したがって、5時や6時は真夜中のように暗い。おそらく4時ごろだったか。わが敏感な耳が音を聞きつけた。徐々に近づいてきた。

 トントンというエンジン音である。日本流にいうと、農家で使用しているトラクターの音である。1台ではない。数台、もっと多いかもしれない。


 しばらくして起き上がった。まだ5時前後だが、1972年の国交正常化から7年の歳月がたっている。待ち焦がれた中国である。同じような日本人ジャーナリストは、それゆえに台湾訪問を蹴飛ばしてきた。やっとの思いで辿り着いた

憧れの北京である。


 このような思いを、もはや理解できる日本人は少ない。中国人観光客が大挙して日本を訪問する時代である。日本の貧困化と正比例しているのだが、時代は変わってしまった。


 中国の巨大市場を活用しないと、日本経済は回転しない。中国嫌いの台湾派首相とて、財閥ビジネスに棹差している現在である。



 午前5時の北京の民族飯店を飛び出した。寒いと感じる季節だが、そうした記憶はない。何かを見たい、そうした必死の思いでカメラをぶら下げて、真っ暗闇の中に一人で立った。


 とつおいつ記憶をたどって40年の夢のような中国を記録したい。出来るかどうか?


<北京の11日と2日>

 ところで、昨日の11日は、中国ではこの日だけは休日である。2020年を祝う行事は、いたるところで行われたらしいが、人間の集まるところが好きではない日本人にとって、それらはどうでもよいことだった。

 95歳の義母宅に子供たちが全員そろった。これは日本の家庭では崩壊してるようだが、親孝行はいまも健在である。現役時代は大きな体を駆使して活躍したようだが、例の文化大革命では、散々苦しい思いをさせられたと聞いた。


 末弟が大魚の頭の料理を義母に用意した。エビの料理、肉料理と野菜料理と盛りだくさんの料理を食べながら、貴州の茅台といきたいところだが、白酒を少し飲んだ。この白酒がおいしくなった111回目の中国訪問である。

 もう30年以上経た元国営企業の6階建て住宅にエレベーターはない。80歳以上の老人の上り下りは大変である。歩行困難な義母の按摩に汗を流して、義母から感謝された。


 今日2日午前中、留守をしていると、公安(警察)と思われる男女が押し掛けてきた。こんな時は、中国語ができないと困るのだが、相手は要するにパスポート番号を確かめに来たらしい。

 証拠を見せるためにパスポートを提示すると、それをスマホで撮影していた。この写真が外部に漏れると、偽造のパスポートができるだろう、と彼らが引き上げた後に気づいた。

 というのも、扉を少し開けると、彼らは部屋の中にカメラを向けた。書面にサインを求められたが、内容がわからないので、これは断った。


 要するに、陽暦12日は仕事始めなのだ。中国の正月は陰暦なので、まだ先なのだ。

202012日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)