記録15号台風と防災ゼロM地帯(中)<本澤二郎の「日本の風景」(3440)

<情報遮断の恐怖と生活基盤の破壊の恐怖>

 冒頭に、日本の今は、悲しいかな韓国と異なる。司法の独立はない。したがって、あの恐怖の311東電原発爆発炎上による放射能大汚染重大事件の、加害者である経営陣に対して、919日東京地裁は、無罪判決を出した。悪しき裁判官は、最高裁判事候補になるだろう。安倍・日本会議に忖度するのは、官僚だけではなかった。いずれも法に携わる憲法違反の面々である。


 再び、台風15号被災地に叩き込まれた筆者は記録する。死の恐怖から生還したものの、安堵することができなかった。情報遮断の恐怖が襲ってきた。


 中古の耕運機を保管していた小屋は、消えてなくなっていた。道路に面した直径20センチほどのヒノキが電線に倒れていた。中曽根康弘が愛用した東京・多摩の日の出山荘の、柚子の木をまねて育てた樹齢40年の、我が家の柚子の大木4本が、西側に倒れかけて、根っこの半分が浮き上がっていた。無事に、生き延びさせることができるのか?

 家庭菜園の壊滅もいたい。


 この惨状に北京から来た妻は、台風が去った9日午前、半狂乱のようになって、知り合いの家に駆け込んでしまった。深刻すぎる問題は、停電による情報遮断の恐怖である。

 もともと公共放送に値しないNHK嫌いだから、テレビはないのだが、その分、パソコンと携帯電話に頼り切っている。いつ電気が復旧するのか、これは死活問題だ。朝から、残り少なくなった充電の携帯を駆使して、東電に繰り返し電話しても通じない。もうこのことだけで、権力監視の精神が壊れてしまいかねないのだ。


 午後3時過ぎ、木更津市役所富来田支所に押しかけた。驚いた。そこは電気がついている。パソコンも使っているようだった。しかし、3人のスタッフは、肝心かなめの東電の様子を全く知らなかった。知ろうとさえしていなかった。

 市は災害対策本部を立ち上げて、市内の被災状況をつかんで、それを市民に発信しているはずなのだが、それさえも無関心を装って、掌握していなかった。住民は承知しているのか、支所の窓口には筆者のほか、もう一人被害を受けた女性が何かを叫んでいただけだった。


 ここの住民は、役所に何も期待していない、しても無駄と思い込んでいるのだろう。民主主義が壊れているのだ。

 この日午後、支所近くの高野歯医者を予約していたので、念のため、立ち寄ってみた。玄関には、停電のため休診の張り紙が出ていた。自家発電機能は、支所だけで、病院にはなかった。

 夕刻にも東電に、残り少なくなった携帯を使って、かけてみたが無駄なことだった。街路灯のない田舎道は真っ暗闇だ。台風の渦中に使用して、残り少ない一本のローソクで、何かをお腹に入れると、太陽の沈むに任せてベッドに横になった。それこそ年寄りの夜中の便所も、辿り着くのに大変だった。


 この場面で、ようやくこれは甘くない、大変なことになる、と肌で感じさせられた。停電はすぐ復旧するとの、これまでの観念を放棄するしかなかった。


 第一、こんなに長い停電を経験したことがない。せいぜい半日もすれば、回復するということに慣れさせられてきた人間である。電気のない生活は、幼いころの台風で、何度かランプ生活の記憶はあるのだが。


 この20年はパソコン情報を頼りに生きてきたわけだから、停電は致命傷である。この場面で携帯はおろか、固定電話も使えなくなっていた。茫然自失だ。しかも、ゆだるような暑さである。水シャワーとプロパンガスが、かろうじて命を支えてくれた。水が止まって、水浴びも水洗便所も使えない被災者の無念は、いかばかりであったろうか。


 停電2日目の10日、子供たちが心配して来訪。近くの神社から、神社の倒れた杉の下敷きになっていた小屋を見つけてきたが、アルミの骨組みとシートが破損していて廃棄するしかなかった。彼らは、熱中症を心配して早めに引き上げた。聞けば、途中の道路に信号がない。コンビニにも何もないということに驚く我れに驚いてしまった。一難去ってまた一難、事態は深刻なのだ。


 君津市山本の波多野さんが「高圧電線の鉄塔2本が倒れている」と教えてくれた。停電の原因の一つを初めて知った。幸い、息子がローソクをたくさん購入してくれたので、これで夜を過ごせると安堵。さらに高圧鍋で、おかゆが作れるというテストにも成功した。


 3日目の朝、太陽が昇る前に起きてしまった。台所の窓から、近くの街路灯がついているのに飛び上がった。切っておいたブレーカーを入れると、冷蔵庫が始動した。助かった。これで冷凍庫の食材も助かった。万一、遅れると、すべて廃棄しなければならなかった。不幸中の幸いである。牛乳は熱を加えて飲んでいたのだから。報道されていないが、食中毒にかかった被災者がかなりいたはずである。


 <今20日午前720分、また停電である。停電は3度目だ。まだ完全ではないのだ。くやしい。パソコンも送信できなくなる。電話も使えない。携帯はしばらくは大丈夫らしい>


 妻が熱中症なのか?寝込んでしまった。新たな心配と不安である。ものすごくよく働いてくれた妻である。クーラー不在が原因であろう。

 それでも、運のよい地区だったらしい。ところが、電話も携帯もつながらない。いわんやパソコンも使えないのである。どういうことか?依然として情報遮断の恐怖との戦いが続く。多くの高齢者はパソコンを使えない。


 筆者は息子に教えられて、文字を打つことができるようになった。そのおかげで、政治評論を継続、発信できるのだが。だから余計にストレスがたまる。このような事態を当事者として体験すれば、若者でもこの苦痛を理解できるだろう。


 夜中に突然の来訪者である。誰か、不信が先走った。玄関を開ける前に声をかけて確かめた。なんと青木愛参院議員の名物秘書で、やくざに動じない日景秘書が、若い運転手と共に、コンビニ弁当を二人分たっぷり差し入れてくれたのだ。これには仰天してしまった。災害の被災者体験は初めてだが、そこでの差し入れを受ける自分に驚いた。


 翌日の4日目には、彼を紹介してくれた八千代市の青柳さんまでが、心配して来訪、非常食のスープを置いていった。人にペンで同情することはあっても、およそ同情されることは、息子の医療事故と同事故死、妻の後追い死でも、あまり経験がなかったものだから、やはり情の人間はそうした行為に、ひどく感激するものである。


 彼は近くの児童福祉施設の「野の花」には、60食の弁当を持ち込んだという。


 今回のひどい被災地は、館山や南房総であるが、彼は災害3日目から現地を訪れて、住民に寄り添って大汗を流していた。たとえそれが彼の仕事だとしても、立派である。永田町で人事などで一喜一憂、飲み食いしている与野党議員に比べると、実にすばらしい。現に、この時点で、地元の知事も市長も何もしていないのだから。


 日景秘書に刺激されて、さっそく近くの江澤・池田・小倉の三君に被害の様子を尋ねながら電話をかけた。大変なのだが、何とかやりぬけてくれるだろう。 君津市望井の石渡幾代子先生は、中学校の英語の恩師である。

 「これから娘のところに行くところ。屋根瓦の破損に近所の人がブルーシートをかけてくれた。電話をもらって本当にうれしかったよ」と何度もお礼の言葉をかけてくれた。被災時の電話は、人を奮い立たせる効果があるものなのだ。これは大事な、大事な、意外に気づかない教訓である。しかし、電話や携帯がつながらないと、それもう可能である。


 鴨川の斎藤俊夫・新倉社長は「息子と屋根に上ってシートをかけたよ」と言いながら、友人の電話に感謝してくれた。


 震災9日か目に停電から解放された、家の近くの兄と弟のことも知った。うれしいことに妻が、最初に好物のチャーハン、続いて赤飯とおいしい焼きうどん差し入れた。

 お返しに弟は、昨夜新米を7キロも届けてくれた。今朝、停電の前に2合ほど炊いた。おいしい新米に納豆、それに農家の柴崎にいただいた生姜を、味噌につけて食べようと思う。この連載は、震災被害無縁の人たちへの教訓として記録している。明日あと一回、政治論としての記録をする予定である。

2019920日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)