昭和天皇の実弟・三笠宮の正義<本澤二郎の「日本の風景」(3412)

<軍紀の乱れ・聖戦論に怒りを爆発させた戦後>

人間は、たとえ兄弟でも物事の認識は違うものである。友人が三笠宮殿下が亡くなった時の、東京新聞記事をメール送信してくれた。昭和天皇と交代していれば、戦後の日本政治は、より平和主義で、隣国との関係はよくなっていたはずである。強く思う。


 大正天皇の4男というから、昭和天皇の実弟である。南京陥落後に南京で1年ほど軍務について「天皇の軍隊」の軍紀の乱れに衝撃を受けている。

 1984年の自伝では、南京駐在時に「兵隊の胆力を養成するには、生きた捕虜を銃剣で突き刺すに限る、と聞いた」「毒ガスの生体実験の映画も見せられた」と記述している。

 南京陥落の5年後である。現地での軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行をしながら、何の皇軍か」などと激烈な講和をした、とも。右翼は今も軍紀の乱れがなかった皇軍という意見を堂々と信じて疑おうとしていないが、現地に行けば何もかも見えてくる。今からでも遅くない。南京と盧溝橋を旅すればわかる!


 1956年の著書では「聖戦とはかけ離れた現実に、信念が根底から揺り動かされた」「罪もない中国の人民に対して犯した、忌まわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない」「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」と書いている。

 昭和天皇は、天上に祭り上げられていただけで、何も知らなかった?ありえない嘘である。文句なしに日本最大の暴君だった!だれぞ反論があるか。


<口先だけの「反省」でごまかそうとした天皇との落差>

 悲しいかな、皇室に興味がなかったジャーナリストは、三笠宮のことを知らなかった。彼はまともな人間だった。


 西園寺公望の孫は、戦後に皇族を離脱して、家族ともども北京で暮らしている。宇都宮徳馬邸での観桜会に、車いすで姿を見せた場面を記憶している。その後に、未亡人が渋谷の宇都宮事務所に伺っている様子も。

 陸大卒業後に、中国派遣軍総司令部参謀、1943年から南京駐在、翌年帰国している。当然、実兄の天皇に事実を報告していたはずであるが、ノーテンキの昭和天皇は、全く意に介さず、中国侵略に突進、それがもとで米国との戦争へと舵を切った。恐ろしい暴君であろう。

 冷静に史実を追及していけば、日本の昭和は最悪の暴君をいただいて、無数の内外の人殺しをしていたことになる。それでいて人民裁判をしなかった。「国民統合の象徴」に祭り上げてしまった。


 象徴となっても、侵略戦争の惨状に身を寄せることがなかった。これは人間ではない。悪い人間は、それでも恐怖を抱く。今度はやられるかもしれない、と恐れ、改憲による再軍備で、我が身を守ろうとした、と分析できるだろう。


<天皇の軍隊の中国での暴走に衝撃>

 三笠宮は、朝鮮半島に足を向ける機会がなかったのかどうか。彼の著書に半島関連の記述があれば、どなたか研究者に紹介してほしいものである。


 日本人の最大の負の特性は、もの忘れがひどい。極端である。

 36年間の植民地支配を忘れて、ワシントンや東京に縋りついている韓国人もいるようだが、人間は生活している環境で、真の信念を失うものらしい。人間は人間らしく生きられなければ、幸せは来てくれない。


 三笠宮はそうではなかった。

 堂々と「偽りを述べるものが愛国者、真実を語るものが売国奴とののしられる世界を、私は経験してきた」と言って右翼に対抗した勇気は称賛に値する。その武器は、大陸での皇軍の蛮行を目撃してきた真実が、彼を支えた。

 三笠宮は、昭和天皇とは違った。


 819日に元オランダ人慰安婦のジャン・オハーンさんが96歳で亡くなった。彼女は故郷で晩年を過ごすことができなかった。しかし、1992年に自らの悲惨な体験を移住先のオーストラリアで公表、94年には回想録を出版、2007年に米国下院公聴会で慰安婦事件を証言した。彼女の死は世界に発信された。

2019年8月22日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

三笠宮さま逝去、100歳 昭和天皇の末弟 軍隊知る最後の皇族

20161027日 1402

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)さまが二十七日午前八時三十四分、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。百歳だった。宮内庁によると、信頼できる記録が残る皇族で百歳を迎えた例はほかになかった。軍部で戦争を体験した最後の皇族でもあった。戦時中、陸軍参謀として南京に派遣された経験などから戦争への深い反省を抱き続け、戦後は歴史学者として古代オリエント史の研究に情熱を注いだ。皇位継承順位は五位だった。

 三笠宮さまは心臓から大動脈に送られるべき血液が逆流する「僧帽(そうぼう)弁閉鎖不全」という持病があり、うっ血性心不全を繰り返し発症。二〇一二年七月には、僧帽弁の機能を回復する手術を受けた。宮内庁によると、今年五月中旬からせき込むようになり、同月十六日に同病院で急性肺炎の診断を受けて入院。肺炎は回復したが、心機能の低下で治療を続けていた。二十七日午前七時四十分すぎから心臓の拍動が遅くなるなど容体が急変した。

 三笠宮さまは一九一五年、大正天皇の四男として誕生。三五年に成年式を迎え、三笠宮家を創立した。陸軍大学校卒業後、中国派遣軍総司令部参謀として、四三年から南京に駐在。帰国後の四四年には大本営陸軍参謀として勤務した。

 戦後は東大文学部の研究生になり、ヘブライ史を学んだ。五四年には日本オリエント学会の会長に就任。中近東文化センター、日本・トルコ協会の名誉総裁を務めた。

 五〇年から日本レクリエーション協会総裁、八〇年から日本アマチュアダンス協会(現日本ダンススポーツ連盟)総裁として、フォークダンスなどの普及にも取り組んだ。

 三笠宮妃百合子さま(93)との間に三男二女が生まれたが、二〇〇二年十一月に三男の高円宮が四十七歳で亡くなった。「ヒゲの殿下」として知られた長男寛仁(ともひと)親王は一二年六月に六十六歳で、敗血症などで長く療養生活を続けていた次男の桂宮も一四年六月に六十六歳で、相次いで亡くなった。

 宮内庁は二十七日、十一月一日に予定していた秋の園遊会を中止すると発表した。

「正義の戦いでなかった」南京の経験語り大戦批判

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた」。戦時中に日本軍参謀として中国・南京への駐在を経験された三笠宮さま。戦後、皇族の立場で「聖戦」の実情を批判的に回顧し、大きな反響を呼んだ。

 紀元節復活の動きにも反対し、復活に賛成する関係者の反発を招いたが、自らの見解は曲げなかった。

 三笠宮さまが南京に赴任したのは、陥落から約五年後の一九四三年。軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行を行いながら何の皇軍か」などと激烈な講話をした。当時を回顧した五六年の著書「帝王と墓と民衆」では、「聖戦」とはかけ離れた現実に「信念が根底からゆりうごかされた」と明かしている。

 「罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない」「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」

 反響は大きく、非難する文書が三笠宮さまの周辺に配られた。三笠宮さまは当時、「経験と視野はせまいかもしれないが、私は間違ったことは書いていない」と説明している。

 神武天皇が即位したとされる二月十一日を祝う「紀元節」復活の動きには、五七年に歴史学者の会合で「反対運動を展開してはどうか」と呼び掛けた。五九年編著の「日本のあけぼの」では「こんな動きは、また戦争につながるのではないだろうか」と懸念も示した。

 歴史学者として、学問的根拠のあいまいな「歴史」に異を唱えた形だったが、これに反発した賛成派が三笠宮邸に押しかけるなどした。

 八四年の自伝では、南京駐在時に青年将校から「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました」と記述。「(中国人捕虜たちへの)毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました」と明かした。

 九八年に来日した中国の江沢民国家主席(当時)には、宮中晩さん会の場で「今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」と話したという。二〇〇六年に出版された江氏の外遊記録で判明した。 (森川清志、小松田健一)

 <三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さま> 1915年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として誕生された。学習院中等科、陸軍士官学校、騎兵連隊を経て41年に陸軍大学校を卒業。同年、子爵・高木正得氏の次女百合子さまと結婚し、長男寛仁親王、次男桂宮、三男高円宮ら三男二女をもうけた。幼少時の称号は「澄宮(すみのみや)」、身の回り品に付けるお印は「若杉」。

(東京新聞)