財閥傀儡政権と徴用工問題<本澤二郎の「日本の風景」(3414)

<36年間の植民地支配と日韓条約でチャラ?>

 先に日韓関係について藪をつついて蛇と評論したが、とうとうワシントンの度肝を抜くような事態に発展したが、そもそもの原因は36年間の植民地政策にある。その間の惨状は筆舌につくせない。それが日韓条約ですべてチャラにしたと言い張る、安倍・自公の極右内閣に対して、韓国の民衆が怒りを爆発させている。大義は韓国にある。日本にはない。国際常識であろう。隣国と友好を結べない日本会議・財閥傀儡政権では、日韓関係はとことん悪化するだろう。

 50兆円以上もの血税を世界にばらまいてきた安倍晋三の売国奴外交の破綻を、ものの見事に裏付けている。保守系の雑誌「月刊日本」も、安倍外交をぼろくそに批判して止まらない。


<アメリカの東アジア政策で押し付けた事実>

 日韓基本条約は、両国が対等に結んだものか。NOである。日本と韓国を配下にしたワシントンが、対ソ中戦略を推進するために、強引にまとめさせた条約で、当時の韓国は軍事政権レベルのものだった。韓国民は外野席に排除されていた。


 ちょうど日本とアメリカの安保条約と同じで、対等の条約ではない。その安保の改定は安倍の祖父が、ワシントンに押し付けられた不平等条約で、日本国民は真っ向から反対している。関連する日米地位協定は、日本国民を奴隷化する内容である。

 米兵は沖縄に限らず、強姦魔よろしく日本女性に襲い掛かり、それでも処罰できない時代が長く続いた。

 日本に愛国政党が誕生すれば、日米安保下の米軍基地の全廃による軍事同盟廃止と帆船日本丸へと舵を切るだろう。それには財閥傀儡政権を退陣させる必要がある。


<長く軍人大統領下、虐げられてきた韓国民衆>

 日本の財閥は、本当に悪魔に相当する金亡者である。昭和天皇に見習って責任を取らない。謝罪をしない悪魔である。筆者はそれを、東芝病院の医療事故死事件で体験させられている。


 敗戦直後、財閥は真っ先に解体させられたものの、朝鮮戦争で復活した。財閥こそが、死の商人である。まともな人間の働く場所ではない。

 朝鮮戦争で朝鮮半島は、38度線で分断された。北にソ連、南にアメリカが対峙、それが現在も続いている悲劇の半島の責任は、あげて日本の植民地支配によるものである。


 したがって、南の韓国は長く軍事政権によって、民衆の権利は抑制され、貧困に甘んじさせられてきた。この現実からも、日本は逃れることはできない。韓国民の血税は、武器弾薬に化けるのだから。したがって、半島の人々の日本認識は、複雑で怨念に満ち溢れている。戦後も虐げられてきた社会も、遠因は日本にある。

 普段は必死で抑制しているが、日本に改憲軍拡の政府が誕生すると、地下のマグマのように燃え滾る韓国民、これは当然のことである。


<金大中政権発足と文在寅政権で民主化した韓国>

 日本財閥・軍国主義下、文化を根こそぎ奪われただけでなく、若者は侵略戦争に狩り出され、女性は従軍慰安婦、さらには財閥労働者を強いられた朝鮮民族の、無念すぎる過酷な運命を強いられてきた史実を、日本人はひたすら直視するしかない。逃げることはできない。


 虐げられてきた民衆が、声を出せるようになったのは、有名な金大中政権になってからである。そのうねりが現在の文在寅政権を誕生させたもので、現在は民主化した韓国である。

 今回のことで人々の安倍への憎しみは、すさまじいものがある。それは理屈ではない。人々の感情が、反安倍で集約されている。韓国民の怒りは、ことごとく反安倍、安倍打倒運動へと拡大している。

 これを打ち消そうとして、安倍の御用新聞などは、反日運動にすり替えて情報操作しているが、無駄なことである。


<村山談話と河野談話を受け入れなかった安倍・自公内閣>

 韓国の反安倍運動の導火線は、極右丸出しの国会答弁だった。村山談話と河野談話を否定する首相発言に起因する。

 朴前政権と合意に達したという、まやかしの慰安婦合意に民衆の怒りは、文政権を誕生させた。政府・議会・司法も決起して、ついには財閥の蛮行を露呈させた徴用工裁判で、日本政府は財閥傀儡政権ゆえに、衝撃を受けてしまった。

 安倍の高飛車な対応を、韓国政府と司法と国民は逆手に取ったのだ。


<従軍慰安婦と徴用工問題の再浮上で財閥直撃>

 天皇の軍隊の蛮行は、戦争とはいえ、常軌を逸していたことは、南京や盧溝橋・ハルビンを旅すれば判明するが、今後とも人道的に許すことができない問題が、従軍慰安婦と徴用工である。しかも、現在も被害者とその遺族が存在しているのだから。


 こうした事態は、安倍・財閥・日本会議政権が、過去を直視しないことから、実態として国際社会の法廷に引きずり出されていることなのだ。それでいて、そうした認識を受け入れるどころか、排除したところから、半島の人々の怒りはいまや天を衝く勢いである。


 自業自得という。藪蛇もいいところだが、財閥を指弾する韓国の司法である最高裁判断を、誰も動かすことはできない。


<財閥の怒りにこぶしを振り上げた傀儡政権>

 日本では、鉄に覆われている財閥の、慌てふためく姿を見聞することはできないが、筆者の目にはよく見えている。


 全く情けないことだが、戦前と戦後の財閥は、確実に継続していて、分断されていない。内外の研究者さえも理解していない不勉強ぶりに、正直なところ、衝撃を受けるばかりである。

 財閥傀儡政権にとっての徴用工判決は、もはや打ち消すことができない。韓国の研究者のみならず、世界の学者がソウルで取材すれば、人類の悲劇であるこうした蛮行を、研究書にまとめることができる。

 ソウルはいま学者にとって最高の研究取材地なのである。財閥傀儡政権がこぶしを振り上げる理由でもある。それは安全保障協定の破棄という結果を生じさせ、ワシントンにも衝撃が走っている。


<自立する韓国と依然、米植民地の日本>

 韓国の文政権は、亀井静香らがいうような「ワシントンのポチ」ではないことが、今回の安倍内閣の報復に対する反撃で理解したはずである。

 ソウルと東京の政治の質は全く異なる。

 韓国内は揺れているが、芯はしっかりしていて、東京と違う。日本政府の御用新聞テレビに翻弄されるばかりの日本国民であってはならない。

 大金を払いながら、番犬では全くない番犬を、番犬と称している日本政府を、早く卒業させる場面であろう。戦後74年にして、いまだにアメリカの植民地でいいのだろうか。


<日本民族主義台頭と秋の改憲議会SOS

 ここで重視しなければならない重大な事実が、各種の世論調査で明らかにされてきた。それは排外の民族主義の台頭である。

 新聞もテレビも見ない日本人は、スマホやパソコンでネット情報をよく見ている。ここで活躍しているのは、意外や産経や読売の右翼・御用メディアとその仲間である。


 捻じ曲げられたソウル報道と、安倍放送ばかりである。そこから反韓報道が、徹底して流れている。その情報操作に、無知な国民は翻弄されてしまう。その結果としての、民族・排外のファシズムの台頭である。


 どういうことか。安倍晋三が狙う9条改憲が、この秋の臨時国会で本格化する。すでに安倍は、国民民主党内に両手を突っ込んでしまっている。立憲民主党の枝野は、正月の伊勢神宮参拝で何かを握られていて危ういことが判明した。改憲に口先だけの慎重論の、公明党の狐を信用などできない。


 9条に限らないが、戦後74年、アジアに平和と安定をもたらしてきた日本国憲法が、まさに危機を迎えている。これに対するアジア諸国民の動向もまた、注目される場面である。

 9条の行方次第では、第三次世界大戦勃発という事態も、間違いなく想定される2019年危機なのである。

2019年8月24日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

天皇の戦争<本澤二郎の「日本の風景」(3413)

<「日本最大の暴君」に反響あり>

  人間は右も左もない。当たり前の普通の人間が一番だ。そうすると、真実が見えてくる。世の中が見えてくるものである。300万人もの日本人を殺してしまった為政者は、日本の政治史上、最大の暴君である。当たり前の常識だ。その普通国民の常識を声に出さない学者と文化人・言論人に代わって紹介したところ、反響は大きかった。本来は新聞テレビが率先して報道すべき事項で、それによって世界に冠たる日本国憲法は生きるのだが。

 

<当たり前のことで、弱すぎる右翼人士の反論>

 普通の国民が当たり前に、思っていることを声に出したり、活字にする社会が、表現の自由を保障した民主主義の国である。

 敗戦から74年も経った日本である。日本も本格的な民主の国にならなければならないだろう。先人の苦労を無駄にしてはならない。

 ひとつ興味がある。最近知った長周新聞のことである。昭和天皇は日本最大の暴君という事実を、かの進歩的な新聞がどう認識、活字にしたのであろうか。是非とも確認したいものである。昨夜、この新聞のことを日刊ゲンダイ記者に紹介してみたばかりである。


 掲示板「阿修羅」に掲載された記事に沢山の反響をいただいた。反論・反発の、いわゆる右翼人士のモノはなかった。普通の国民をうなずかせるものはなかった。数千万人の諸外国の人々の命と、300万人の日本人の命を奪った戦争など、日本の過去になかった。それを先頭に立って断行した人物は、本来、国民統合の象徴になってはならなかったのだ。たとえ数々の情報操作をしたうえでも。

 歴史を直視した三笠宮には、その資格があったかもしれない。


<すごい記事を見つけた、アクセスを>

 「日本最大の暴君」の当初の中に、昭和天皇の実像に迫る記事を見つけたので、これを参考までに貼り付けることにした。一見の価値がある。教科書で決して見ることがない天皇の負の数々に驚きふためいてしまう。

 ライターは偽名を使っているはずである。あまりにも、それは日本の知られざる天上界の話題ばかりだからである。この種の記事を、過去に見たことがない凡人ジャーナリストだった証明ともなってしまった。

 このことについての長周新聞の分析なども注目したい。


<作られた幻想に騙されるな、純粋人間が一番>

 歴史は常に勝者の側がまとめた文書でまとめられている。洋の東西を問わない。どこの国もそうだから、それに対する追及とか検証をおろそかにしてしまい、結果的に歴史の真実は闇に葬られてきたが、21世紀はそれまでとは異なるはずだ。

 それは、ある程度の科学と合理主義の衣をまとっているわけだから、負の事実は内外の研究者によって記録され、必ず公開される。昭和天皇の素顔を明らかにする努力が、今後とも不可欠であろう。

 純粋になって視野を広げていけば、凡人でも騙されることはない。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html


<続・戦争未亡人の声も忘れずに>

http://jlj0011.livedoor.blog/archives/20518347.html

 先日書いた「戦争未亡人の声」は、予想以上に好ましい反響をいただいた。「続・戦争未亡人の声」をなぜか掲示板に転載されなかったが、これはとても大事なことについて書いてあるので、読者と関係筋に目を通してもらいたい。


 伊藤詩織さんは、幸運にも命は助かっているが、戦争未亡人の娘はやくざに殺害されてしまった。背景に宗教団体の存在があることから、捜査当局がひるんでいる可能性も指摘されている。法の支配・法の下の平等は貫徹されなければならない。

 「木更津レイプ殺人事件」は、戦後の第一級のレイプ殺人として性犯罪史に記録されるものであって、犯人の処罰だけで終わりになる事件ではない。「れいわ新選組」の野原善正の出番になるかもしれない。

2019年8月23日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)


昭和天皇の実弟・三笠宮の正義<本澤二郎の「日本の風景」(3412)

<軍紀の乱れ・聖戦論に怒りを爆発させた戦後>

人間は、たとえ兄弟でも物事の認識は違うものである。友人が三笠宮殿下が亡くなった時の、東京新聞記事をメール送信してくれた。昭和天皇と交代していれば、戦後の日本政治は、より平和主義で、隣国との関係はよくなっていたはずである。強く思う。


 大正天皇の4男というから、昭和天皇の実弟である。南京陥落後に南京で1年ほど軍務について「天皇の軍隊」の軍紀の乱れに衝撃を受けている。

 1984年の自伝では、南京駐在時に「兵隊の胆力を養成するには、生きた捕虜を銃剣で突き刺すに限る、と聞いた」「毒ガスの生体実験の映画も見せられた」と記述している。

 南京陥落の5年後である。現地での軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行をしながら、何の皇軍か」などと激烈な講和をした、とも。右翼は今も軍紀の乱れがなかった皇軍という意見を堂々と信じて疑おうとしていないが、現地に行けば何もかも見えてくる。今からでも遅くない。南京と盧溝橋を旅すればわかる!


 1956年の著書では「聖戦とはかけ離れた現実に、信念が根底から揺り動かされた」「罪もない中国の人民に対して犯した、忌まわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない」「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」と書いている。

 昭和天皇は、天上に祭り上げられていただけで、何も知らなかった?ありえない嘘である。文句なしに日本最大の暴君だった!だれぞ反論があるか。


<口先だけの「反省」でごまかそうとした天皇との落差>

 悲しいかな、皇室に興味がなかったジャーナリストは、三笠宮のことを知らなかった。彼はまともな人間だった。


 西園寺公望の孫は、戦後に皇族を離脱して、家族ともども北京で暮らしている。宇都宮徳馬邸での観桜会に、車いすで姿を見せた場面を記憶している。その後に、未亡人が渋谷の宇都宮事務所に伺っている様子も。

 陸大卒業後に、中国派遣軍総司令部参謀、1943年から南京駐在、翌年帰国している。当然、実兄の天皇に事実を報告していたはずであるが、ノーテンキの昭和天皇は、全く意に介さず、中国侵略に突進、それがもとで米国との戦争へと舵を切った。恐ろしい暴君であろう。

 冷静に史実を追及していけば、日本の昭和は最悪の暴君をいただいて、無数の内外の人殺しをしていたことになる。それでいて人民裁判をしなかった。「国民統合の象徴」に祭り上げてしまった。


 象徴となっても、侵略戦争の惨状に身を寄せることがなかった。これは人間ではない。悪い人間は、それでも恐怖を抱く。今度はやられるかもしれない、と恐れ、改憲による再軍備で、我が身を守ろうとした、と分析できるだろう。


<天皇の軍隊の中国での暴走に衝撃>

 三笠宮は、朝鮮半島に足を向ける機会がなかったのかどうか。彼の著書に半島関連の記述があれば、どなたか研究者に紹介してほしいものである。


 日本人の最大の負の特性は、もの忘れがひどい。極端である。

 36年間の植民地支配を忘れて、ワシントンや東京に縋りついている韓国人もいるようだが、人間は生活している環境で、真の信念を失うものらしい。人間は人間らしく生きられなければ、幸せは来てくれない。


 三笠宮はそうではなかった。

 堂々と「偽りを述べるものが愛国者、真実を語るものが売国奴とののしられる世界を、私は経験してきた」と言って右翼に対抗した勇気は称賛に値する。その武器は、大陸での皇軍の蛮行を目撃してきた真実が、彼を支えた。

 三笠宮は、昭和天皇とは違った。


 819日に元オランダ人慰安婦のジャン・オハーンさんが96歳で亡くなった。彼女は故郷で晩年を過ごすことができなかった。しかし、1992年に自らの悲惨な体験を移住先のオーストラリアで公表、94年には回想録を出版、2007年に米国下院公聴会で慰安婦事件を証言した。彼女の死は世界に発信された。

2019年8月22日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

三笠宮さま逝去、100歳 昭和天皇の末弟 軍隊知る最後の皇族

20161027日 1402

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)さまが二十七日午前八時三十四分、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。百歳だった。宮内庁によると、信頼できる記録が残る皇族で百歳を迎えた例はほかになかった。軍部で戦争を体験した最後の皇族でもあった。戦時中、陸軍参謀として南京に派遣された経験などから戦争への深い反省を抱き続け、戦後は歴史学者として古代オリエント史の研究に情熱を注いだ。皇位継承順位は五位だった。

 三笠宮さまは心臓から大動脈に送られるべき血液が逆流する「僧帽(そうぼう)弁閉鎖不全」という持病があり、うっ血性心不全を繰り返し発症。二〇一二年七月には、僧帽弁の機能を回復する手術を受けた。宮内庁によると、今年五月中旬からせき込むようになり、同月十六日に同病院で急性肺炎の診断を受けて入院。肺炎は回復したが、心機能の低下で治療を続けていた。二十七日午前七時四十分すぎから心臓の拍動が遅くなるなど容体が急変した。

 三笠宮さまは一九一五年、大正天皇の四男として誕生。三五年に成年式を迎え、三笠宮家を創立した。陸軍大学校卒業後、中国派遣軍総司令部参謀として、四三年から南京に駐在。帰国後の四四年には大本営陸軍参謀として勤務した。

 戦後は東大文学部の研究生になり、ヘブライ史を学んだ。五四年には日本オリエント学会の会長に就任。中近東文化センター、日本・トルコ協会の名誉総裁を務めた。

 五〇年から日本レクリエーション協会総裁、八〇年から日本アマチュアダンス協会(現日本ダンススポーツ連盟)総裁として、フォークダンスなどの普及にも取り組んだ。

 三笠宮妃百合子さま(93)との間に三男二女が生まれたが、二〇〇二年十一月に三男の高円宮が四十七歳で亡くなった。「ヒゲの殿下」として知られた長男寛仁(ともひと)親王は一二年六月に六十六歳で、敗血症などで長く療養生活を続けていた次男の桂宮も一四年六月に六十六歳で、相次いで亡くなった。

 宮内庁は二十七日、十一月一日に予定していた秋の園遊会を中止すると発表した。

「正義の戦いでなかった」南京の経験語り大戦批判

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた」。戦時中に日本軍参謀として中国・南京への駐在を経験された三笠宮さま。戦後、皇族の立場で「聖戦」の実情を批判的に回顧し、大きな反響を呼んだ。

 紀元節復活の動きにも反対し、復活に賛成する関係者の反発を招いたが、自らの見解は曲げなかった。

 三笠宮さまが南京に赴任したのは、陥落から約五年後の一九四三年。軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行を行いながら何の皇軍か」などと激烈な講話をした。当時を回顧した五六年の著書「帝王と墓と民衆」では、「聖戦」とはかけ離れた現実に「信念が根底からゆりうごかされた」と明かしている。

 「罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない」「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」

 反響は大きく、非難する文書が三笠宮さまの周辺に配られた。三笠宮さまは当時、「経験と視野はせまいかもしれないが、私は間違ったことは書いていない」と説明している。

 神武天皇が即位したとされる二月十一日を祝う「紀元節」復活の動きには、五七年に歴史学者の会合で「反対運動を展開してはどうか」と呼び掛けた。五九年編著の「日本のあけぼの」では「こんな動きは、また戦争につながるのではないだろうか」と懸念も示した。

 歴史学者として、学問的根拠のあいまいな「歴史」に異を唱えた形だったが、これに反発した賛成派が三笠宮邸に押しかけるなどした。

 八四年の自伝では、南京駐在時に青年将校から「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました」と記述。「(中国人捕虜たちへの)毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました」と明かした。

 九八年に来日した中国の江沢民国家主席(当時)には、宮中晩さん会の場で「今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」と話したという。二〇〇六年に出版された江氏の外遊記録で判明した。 (森川清志、小松田健一)

 <三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さま> 1915年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として誕生された。学習院中等科、陸軍士官学校、騎兵連隊を経て41年に陸軍大学校を卒業。同年、子爵・高木正得氏の次女百合子さまと結婚し、長男寛仁親王、次男桂宮、三男高円宮ら三男二女をもうけた。幼少時の称号は「澄宮(すみのみや)」、身の回り品に付けるお印は「若杉」。

(東京新聞)




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